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「雨の匂い 虹の匂い(二)」白井明大さんの日記

感動の余波は思ったよりもずっとおおきくいまゆれうごいていて、もうすこし書きたいので書きます。(仕事しているあいだは止まってた思考が、うごきだしたらやみません)

ここから書くことは、すぎたことかもしれません。
じぶんは批評家でもなければ、短歌のことなどほとんど知らないからです。

ですが、感動してやまなかったからこそ、ふだんであれば黙って胸のうちに秘めておくかもしれないようなことまで、書いておきたくなります。

日本が生んだ定型詩の、いまこの瞬間に歌われている歌たちの、これほどまばゆい姿をみたのは初めてです。

それはとんでもなく、とんでもないものです。

その時、じぶんが何を感じ、いかにこころがそれらに反応したのか、ただよかった素晴らしかった、とだけ書くだけでは、正直、足りないです。精確にじぶんが感じたところを書いておきたい、そうしないと恥ずかしくてしかたがない、といま感じています。

文中失礼がありましたら、ご指摘ください。
また、一部、評論文のつねにならう考えから敬称略の箇所がありますこと、あらかじめ申し上げます。

素晴らしいイベントだったことに感謝を込めつつ。


   ※

ショックをおぼえました。
会のあと、観客でいらしていた詩人のかたが、「今日の短歌には、笑いを含むものが多くあった。なぜだろう」とおっしゃっていて、そこで考えさせられました。たしかに、と。
ユーモアを成すことのむずかしさと素敵さは、自由口語詩でも同じようにいえると思うのですが、長い歴史のある詩歌であるからこそ蓄積された知恵や、積み重ねられてきたものの下支えもあることでしょうが、なにより歌人がその歴史を一身にうけて歌に向き合っているからではと思いました。
笑い。
それ一つとっても奥深さを感じたものです。
これはほんのさわりとして。

   ※

飯田有子さんの短歌は、ことばとことばのせめぎあいを、ひとつの歌で火花散らせる。そのぶつかりあいが凄い。また、だからだろう、五七五七七の音数からはずれる「破調」をなさる。たとえば、五とくるところを「枝毛ねーさん」と七もしくは三とする。というように。
これは、歌こころが音数の決まりを超えてことば・意味・ひいては音韻をとろうとする作用だと考える。似たことが詩であった。近代詩から現代詩への以降だ。五七調という定型から自由詩へ、また文語から口語へ、という飛び越えがそうだ。つまり、飯田有子が抱える歌こころは、ことば同士をスパークさせるのと同じように、音数律と、歌おうとするものとをスパークさせる。
現代詩が自由口語詩を選択したのと同じ種類の志向性を、飯田有子の歌こころはみなぎらせている。

だからだろうか、個人的な印象として、飯田の朗読で光ったのは、自作と、安田倫子の詩、イシダユーリの詩だった。いずれも、たたかいのうたのように感じられた。背筋の伸びた、一歩も退かない女の歌だ。

彼女の短歌を聴いているうちに、凄いショックを受けた。こうもこの人の短歌は、ことばのぶつかり、ずれ、ギャップ、飛躍をなしていると。じぶんは何だろうかと、じわじわと素にもどってきているいま、感じはじめている。凄かった。破調を短歌として成り立たせるものがあるとしたら、自由詩における内在律と同じものだ。つまり、じぶんにとって、この音数が必然である、と高い強度で打ち出すことだ。それを飯田はしている。そこが凄い。おそらく、誰しもが破調で歌えるものではないだろう(詳しくはないから、これは想像だけれども)。なぜなら、音数の決まりを超えた瞬間、それは定型詩である短歌の基礎を失うからだ。いきなり、空中ブランコがはじまるはずだ。じぶんだけをたよりに、決まりのある短歌の外で、自由律の短歌を立ち上げていかねばならない。すべては、己の歌こころひとつによって。

彼女の歌こころは、自由律を求めながら、短歌を必要とする。それが、つよく、可憐で、美しくも凄い。

気になったのは、他の二人の歌人の短歌を読むときだった。自身の歌に込められた批評性は、リーディングでも発揮されていたが、他のかたの歌を読むとき、その声から批評の響きが鳴りをひそめた気がした。そこだけ気になった。飯田の叙情は、まだ隠されていると思った。
(※訂正です。当朗読会で「他の二人の歌人の短歌」を飯田有子さんはお読みになっていませんでした。白井の誤認です。当該パートで朗読なされたのは『林檎貫通式』「わたしたちのはすかいに言うさよならは」(ともに飯田有子作)でした。つつしんでお詫びし、ここに訂正いたします)

   ※

雪舟えまさんの朗読がはじまったとき、空気が変わった。明らかに。
ぴんと張っていた一本線がきれ、ふゆふゆと漂うクモの糸のように定かでなくなった。
逆に、聴くこちらの耳は、どこかへ行ってしまいそうな、きえいりそうな彼女のこえに、耳を懸命に澄ますことをはじめたくなってそうし、ついぞやまなかった。

聴いていて、恋歌と、ふるえる声の、ゆらぐ読みの、アンバランスさとが、フィットしていた。そして、歌を生んだ過去の記憶の再生ではなく、いまここへ、歌がうまれた瞬間を持ってきてみせるように、歌こころのさいしょのかたちをあらわにして見せているような、そんな印象をはっきりと受けた。鮮烈だった。

が。ここでもショックだったのは、歌じたいだった。ぼくが書いている詩と、いま歌われている短歌は、近いか、もしくは同じといいたくなる種類のものだった。それがまぶしかった。恋愛詩をこれまで、いくつもみてきた。でも、短歌は不勉強で、それほど知らなかった。にしても、きっと、雪舟さんの短歌は特別なのではないだろうか。そのゆらぎが、よわさが。ぼくの詩を、「しなやかな、よわさ」と評してくださったかたがいる。そのことばを、とてもたいせつに思っている。
が、どうだ。
じぶんのものとしてだいじに思っていたものが、いま目の前で歌われているのだ。初々しい、そして、鮮やかな歌いあげで。

まぶしかった。焦がれとも、憧れとも、まして羨望とも、違う。

失礼を承知で書かせていただけるなら、双子のかたわれにでも会ったようだった。ドラえもんが、ドラミちゃんをみるようだったのかもしれない。素性のわるい兄が、ま無垢な妹をみるような。そんなだったろうか。

そのまぶしさのなかで、そう僕は知っている、そのまぶしさの中にいる者は、けしてまわりのことなど気にも留めないことを。実際、雪舟えまの歌はそうだった。リーディングはべつだ。このときのリーディングは、外界と接点をもった。だからこそ、ふるえるのだから。歌こころ自体もふるえているが、その無防備な歌こころを無防備なままに歌うところに、雪舟のま無垢さがまたあると思う。

彼女はじぶんの歌を、その歌にだけ誠実であればいいし、それができるし、それをなさっていて、こちらをぶわんぶわん、クモの糸といっしょにふりうごかして不思議な心地よさを享受させてくれた。

ぼくはこの人の歌を聴けて本当によかった。まだ先があること、まだまだまだ上があることに、気づいた。というか、もう、本当に恥ずかしくって、というより、恥ずかしくなる必要もないくらい、じぶんはまだまだほんの入口に立ったか立たないかくらいなのだ。

恋歌の懐の深さを、雪舟えまの短歌に接して、思い知らされた。

   ※

いつのえみさんのことは、1年前からきいていた。友人の詩人ふたりが、彼女のリーディングは鳥肌ものだと、そうぼくに教えてくれた。

その鳥肌もののリーディングを、聴きたい。それが、ここへ足を運んだ、理由だった。

彼女は巫女だ。巫女的資質で、じぶんを器にして、歌こころや詩こころにかぎらず、ふれたものことを変換して、音/こえという空気のふるえにしてかえす者だ。

リーディングを聴いていて、そう感じた。

じぶんの短歌を読むときには、まだ地上に立っているが、他の歌人の歌、詩人の詩を読んだとき、じぶんを消していくようだった。かわりに、こえだけの者となろうとする。ぼくには、そのように映った。

なぜだろうか? 彼女の歌こころの源泉も、その理由と近い場所にあるかもしれない。

いつのえみは、もしかすると、日本語がまだ文字を獲得するまえの、歌い手としての資質をつよく持っているのではないか。文字として書く歌ではなく、こえとして放つ歌に、より近しい存在なのではないか。いまこの文章を書いていて、ふとそう思った。

彼女がじぶんの短歌にだけは、地上につなぎとめられたままでいるように映ったのは、彼女の歌こころが、地上に生きることの悲しみによって生まれたものだからであろうか。その歌をうたうときだけは、生身に返る、というようなことなのだろうか。叙情にすぎるほど叙情という、われをわれにとどめない、なりふりのない叙情の奔流があるのではないか。

(ここは簡単にふれるだけに留めたいことだが、もしかすると、いつのえみの短歌のありようは、散文的かもしれない。短歌をあまり読んだことのないじぶんがはっきりと言えるべくもないから、かるくふれるにとどまるが、飯田さんの歌が音数という点で超えようとしたように、いつのさんの歌は短歌と散文の端境を往来するものでは、と思ったのだ。

これは持論にすぎないけれど、詩というものは、ジャンルの枠からこぼれようとするとき、あたらしいものとして生まれると思っている。いつのさんの短歌が、散文との境で行き来するようであるとしたら、それはどんな歌を輝かせることだろう。そんな空想がふとよぎったので、記しておく。)

その、じぶんの歌、という地上の縛りがない、他の人のことばを読むとき、彼女はおそらく、書かれた文字にとらわれないのだ。否、書かれたことばと、彼女は出会わないで、それらは音となって、いつのえみと出会うのだ。そういうことではないだろうか。

彼女は「うつろう」存在であり、己の身体に存在する以上に、周囲の空気か何かの一部としてあろうとすることを、じぶんの存在のありようとするかのような詩性が、いつのえみのものなのではないだろうか。それだから、あのようなリーディングをするのではないだろうか。

ただ、この夜の彼女には、もうひとつ地上に縛られるものがあった。主催者・企画者などとしての立場だ。
今夜の朗読で、彼女は自らの集中力を最高までに保ち続けるための事前の準備時間を、おそらく十分には持てなかっただろう。
主催者とはそういうものだし、しかも今回のイベントは、きわめて運営自体にエネルギーを費やさねばならない種類のものだったであろうからだ。(このイベントを成功させたこともまた、尊敬に値することだ。ここもまた、強調しておかなくてはならない。本当に、こういうのは大変なことなのだ)。

あくまでこれはぼく個人の印象だけれども、いつのえみさんのリーディングは、おそらく彼女のベストパフォーマンスではなかったのではないだろうか。

そう思ったのは、ある一瞬、ある一瞬に、感じるものがあったからだ。いつのえみのリーディングには、確かに深淵が内包されていることが予感された。

たとえば、安田倫子の詩を読んでいるときの彼女がそうだった。日本語はアクセントが本来自在である。それを彼女は実践した。ひっくり返したように、いわゆる標準語のアクセントから、するっと身をひるがえして、舞うようにことばを発声していく。
安田倫子の詩のリズム、けして一定ではなく、注意深く読むとそこに安田だけの法則があるあのリズムを、いつのえみのこえは、創造的になぞらえていった。

それは、もし1年前に話を聴いていなかったなら、驚嘆しただろうものだった。いきなり、なんのまえぶれもなしにそれが起こっていたら。だが、ぼくは彼女のリーディングがいかに高いものか知っていた。また、上野ポエトリカンジャムのビデオを、わずかな時間だったがみてもいた。

ピナ・バウシュの舞台を観るように、矢野顕子のピアノナイトリーを聴きに行くように、いつのえみの舞台は、観客を惹き込む。ここは強調しておきたい。また聴きたい、と思わされる強烈なものを、こちらから欲したくなるようなこえを、彼女はたたえている。

去年の夏から、沖縄の古い歌や方言、母、祖母祖父おじおばたちの島として、じぶんの血肉にまじってきたものを、詩にしはじめているが、「君の舞う」「月の舞う」などがそれにあたるが、じぶんでは決してこれらの詩を満足にリーディングすることはできない。かつて沖縄は巫女の島だった。それはいまでも少なからずそうだ。

おもろさうしがあり、いまの沖縄がある、その時空の幅をどれだけじぶんが書けるものか、はなはだ怪しい。が、彼女のリーディングにふれたとき、そこに感じたのは、そうした時空の幅を超える可能性を、このひとは持っているんだ、とそういうことだった。

島の浜で、もしこの人がリーディングをしたなら、どれほどの世界がひろがるだろう。そんなことさえ想像したくなる。ぞっとするほど、彼女のこえは、日本の古く古くからある深淵を、いまなお記憶しつづけている。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=251349335&owner_id=440518
プロフィール

いつのえみ

Author:いつのえみ
伊津野重美 

第一歌集『紙ピアノ』
1st Album『ひかりの素足』
詩誌『生命の回廊』発行・編集。

********************

フォルテピアニシモ vol.14
 
~ Keep the holy fire
       burning ~

伊津野 重美 朗読

2016年11月3日(木・祝)
12:30 開場/13:00 開演

場所:STAR PINE'S CAFE

前売・予約¥2,500円+1drink
ペアチケット前売・予約のみ
     ¥4500+2drink
当日¥3,000円+1drink
チケット前売発売10月3日より
 前売は店頭販売かweb予約
予約アドレス
https://ssl.form-mailer.jp/fms/f7f014c8172636

STAR PINE'S CAFE
http://www.mandala.gr.jp/

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伊津野重美 1st Album 

『ひかりの素足』
歌人伊津野重美による初の朗読アルバム。
ゲストにチェリスト森重靖宗を迎えて、
宮沢賢治の童話「ひかりの素足」と
日本近代詩の抒情世界を精緻に紡ぐ。

全9曲、48分。定価 2,500+税

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「生命の回廊 vol.3
『えーえんとくちから 
  笹井宏之作品集』特集号」

2011年11月刊行

井口和泉 浦歌無子 
岸田将幸 斉藤斎藤
斉藤倫 樋口由紀子
ひろたえみ 三角みづ紀
ヤリタミサコ 夕暮マリー
伊津野重美

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