dawn chorus

いつのえみのうつそみのゆめ

「オトダマフリ」岸原さやさんの日記より

月下美人とオトダマフリ

おととい、武蔵小金井で、いつのえみさんの朗読と、成田護さんの舞踏のコラボを堪能させていただいた。

今橋愛さんもいらしていて、隣りあい、息をのんで床つづきの至近のステージを見つめた。

コンクリート打ち放しの小空間が、神秘的な場に変容してゆく。

いつのさんの朗読を目に耳にするのはこれで三度目だが、いつも、いつでも胸がいっぱいになる。

いっしんな祈りのように、透明な気流があふれ、天から清浄な光が降りてくるように感じる。


その二日前の夜更け、自宅近くの奥まった街路で、月下美人が花開く姿に遭遇した。
育てるのに難しく、ましてや開花に居合わせることは更に難しい花である。
その家のドアを叩きたい衝動にかられながら、写真を撮った。
ストロボのせいか、純白の花は碧色っぽくうつった。

その、ひそやかな月下美人の像が、いつのさんの立ち姿に重なった。


「オトダマフリ」と題されたステージは、最後に朗読と舞踏が渾然一体となって終わった。

銀色の球状の不思議な音響道具を左右の手に持ち、成田さんが舞う。
電子の「オトダマ」は音の玉であり、音の魂なのだろう。
それは、ひどく幻想的で、いつのさんが朗読する言霊と、よく響き合っていたのだった。



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澁澤龍彦回顧展

澁澤龍彦回顧展 ここちよいサロン」は、よい展示だった。
ぼけぼけしている間に、気が付くと終了日が間近になっていた。ひろえみちゃんに教えてもらっていなかったら、見逃すところだった。最近また一層皮膚や爪が弱り、顔や、靴を履くと足が痛い。

澁澤自体が、特に好きな訳ではないのだが、この辺の交流・影響関係に関心があったので、確認しておきたかったのである。一時間で足りるかと思ったら、予想以上にボリュームがあり、時間が足りず閉館過ぎてからも粘っていて最後の一人になってしまった。
高橋睦郎のインタビューや土方巽の通夜の映像まで流れていた。

手紙や写真などで、作品や芸術家同士の出会い、交流、共同作業、サド裁判の経緯や文人達の反応、三島由紀夫の自死の波紋や晩年になっての初受賞…文学の現場が動いている感じにわくわくした。
池田満寿夫の手紙は、さすが格好よい。

コクトー、埴谷雄高、遠藤周作、三島由起夫、吉岡実、高橋睦郎、白石かずこといった書き手だけでなく、舞踏家の土方巽、劇作家で演出家で役者の唐十郎、人形作家の四谷シモン、写真家の細江英公などの交流も興味深い。単に親しい友人とか、作家仲間として刺激を与え合っていたというところを越えた結びつきを感じた。
なかでも、ジャンルを越えてゆく者、池田満寿夫、土方巽、唐十郎、四谷シモンとの交流は、うなずけるものがあった。

副題の「ここちよいサロン」とは、どうだろうかと思っていたが、見ると納得するものがあった。
よい人は、よい人を集める。力のある者は、力のある者を…
土方巽がカリスマ的な強烈な存在でアスベスト館という芸術交流の磁場をつくり、死後そのような場所がなくなっているのではないかと漠然と感じていたが、澁澤龍彦も、自身が優れた表現者であるだけでなく、文学・美術・舞台芸術などを統合して理解し、愛し、まだ評価が定まっていない才能を見抜く鑑識眼をもち、自分自身が人を集める場になっていたというのは、当たっているだろう。

同年生まれの土方巽を見送った時の澁澤の弔辞は、その翌年逝った澁澤自身への弔辞と、同じ並びの陳列ケースに入っていて感慨深かった。それを書いた池田満寿夫は、三島の自死の時には、その動揺を記した手紙を澁澤に送っていた。そして、その池田も既に鬼籍に入っている。 

人をどうやって見送り、またどのように人を残してゆけばよいのか、最近ずっと考えていた。
人を失うことに、方法なんてないのだ。それぞれが、それぞれの悲しみを悲しみ、苦しむしかない。
ここに来て、こんな当たり前のことが分かった。

ローズガーデンを抜けて、港が見える丘公園でひとしきり梅雨の晴れ間の風に吹かれる。
ハンカチのような、やまぼうしの花が咲いているのに気付いた。
私は、ルーチーンワークと闘病だけでいつも疲れ、最近は特に頑張れなくなっていた。私は、まだ何もしていないに等しい。
もっと仕事をしよう。
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「短歌の祈り/詩の言葉」しずえさんの私信より

いつのえみさま。

こんにちは。
初めてメールを書かせていただきます。

昨年秋、福岡市文学館で開かれた、「短歌の祈り/詩の言葉」を観覧させていただいた者です。

あの日、初めて体験した世界に腰が砕けてしまい、何だかぼんやりとした心地のまま、家路を辿りました。
アンケートに記入する余裕もないままでしたので、いつか感想をお伝えすることができれば。。と願いつつも、うまく伝える自信も無く、結局、気がつけば5月になっていました。

いつのさんの朗読を拝見して、表現するという作業は、「覚悟」を伴うものなのだ。。と改めて感じました。
キレイな風景だけを見ているわけにはいかない。
いつも清らかな水を飲んでいるわけにはいかない。
そんな不自由さを全部呑み込んだ上での表現なのだと、いつのさんの朗読を目の当たりにして、強く思いました。

あの日、文学館での非日常的な空間を今でも鮮やかに憶えています。
窓から差し込む淡い秋の光。
文学館の古びた匂い。
ときどき轟く飛行機の音。
その音に違和感無く重なる、いつのさんの祈り、叫び。
苦しいくらいに濃厚で、それでいて、誰かを赦したくなるような空気。

そこに、たしかに、いつのさんがいた。
たしかに、私がいた。
もう、オルゴールの中に大切にしまっておきたいような風景です。
ほんとうにありがとうございました。
もっと上手に感想をお伝えできればいいのですが、その文才を持ち合わせていない自分がもどかしいです。

最後になりますが、5月にお生まれになったということ。。

お誕生日おめでとうございます。

実は私も5月に福岡で生まれたということもあり、とても嬉しいです。

長くなりましたが、これからもお体を大切に、お過ごしください。
またいつか、いつのさんのお姿を拝見できる日を夢見て、がんばります。

ありがとうございました。
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