伊津野重美さん、はじめまして。
あいと申します。


伊津野さんの短歌に出会ったのは、
およそ二年前になります。
出版されたばかりの「紙ピアノ」を、
書店で見つけたのがはじまりです。

ユモレスク高らかに弾く 草上の遂げ得ぬ思いに紙ピアノ鳴れ

という、帯の一首が、いきなり視界に飛び込んできて、
連れが驚くほどの勢いで、本を手に掴み取っていました。
表紙の数首と、冒頭の二、三ページで、
「これは買わなくてはならない」
という、激しい衝動に駆られ、そのままレジへ走りました。
文字どおり、走りました。
家へ帰って、包装を解く手ももどかしく、
一心不乱に、一気に読み終えました。
ページを繰る手がどんどん、どんどん早くなり、
気がついた時には、ぼろぼろ涙を流して泣いていました。

私のことが書いてある、と、最初に思いました。
どうして、私の心を知っているんだろう、と不思議に感じました。
あとがきの、
願わくばこの本や私の声が、
辛い時苦しい場所にいる悲しい人に届いてくれることを。
という言葉を読んで、また泣きました。
泣きながら、「届いた、届いたよ」と、
無意識のうちに呟いていました。

ちょうどそのころ、私は心の病の最中にありました。
今も、完治はしていません。
さまざまな要因が絡み合っての発症でしたが、
この本に出会う約一年前、死のうと思ったことがあります。
ちょうど旅先で不調がピークに達し、
私は、新幹線のホームにいたのです。
ここに飛び込めば楽になる、とぼんやり思いました。
通過列車を知らせるアナウンスが、やけに美しく聞こえました。
一歩を踏みだしかけた時、
まだ生きている大切な人のことが不意に頭をよぎり、
私の足はそこで止まってしまいました。
耳をつんざく轟音を立て、新幹線が目の前を通過していきました。

私にとって、伊津野さんの言葉は、
あの時、死の世界から誘ってきたアナウンス、
現実に視界を遮って通り過ぎた列車の轟音、
その間(あわい)から聴こえてくる音楽のように感じられます。
ふたつの衝動の狭間で引き裂かれていた、
あの瞬間を忘れて生きることはできない、と思い知らされるのです。
同時に、生きることはつまり、そういうことなのだ、
という、静かな祈りにも辿り着かせてくれます。


このメールを書くに至るまで、随分と迷いました。
きっかけは、先日行われた、「短歌の祈り 詩の言葉」です。
山口県在住の私にとって、伊津野さんの活動拠点は遠く、
このイベントを知った時は、願ってもない機会だと思いました。
新幹線に飛び乗って、開始時刻よりも相当早く着き、
これ幸いと最前列に陣取りました。
ちょうどマイクのあたり、伊津野さんからご覧になって右側の、
赤いニットを着ていた女性は目に留まったでしょうか?
イベントに集中なさっていたので、これは、見えていないだろうな…
と思いながら、私も聴く者として集中させていただきました。

よるべない子供のように、辛酸を舐めてきた老婆のように、
多様な声に驚きました。
伊津野さんの細い体のどこに、このエネルギーが眠っているのか、
不思議になる程の存在感でした。

生と死の間から、魂を切り売りするものとして発された言葉。
紙に並んだ文字も、体から発される声も、
印象はまったく変わりませんでした。
伊津野さんがいる、伊津野さんの言葉がここにはある、と思いました。

歌人の穂村弘さんが、「伊津野さんの朗読にはあたる」と仰ったのは、
少しわかるような気がしました。
伊津野さんがまったく手加減なさらずぶつかってこられるので、
受け止める側の人間も、生半可でない覚悟を要するのです。
ある種の人生経験を積んでいない人間にとって、
それは少し、きついことかもしれません。
私も、聴き終えて数週間、伊津野さんの声が、
体の奥底で響き続けているように感じました。
そして、その声は今も、私に訴えてきます。
私はまだ生きている、という実感を呼び覚ますのです。

ただ、トークセッションでは、文学というものの閉塞を思いました。
見知りあった人々が、共通言語を語っている感が否めませんでした。
私が新幹線に飛び乗った動機のひとつに、
あの泣きながら思った「届いたよ」という言葉を、
できれば自分自身の口から伝えたいという気持ちがあったので、
一般の参加者に発言権がまったくないのは、淋しい思いがしました。
それだけが、不満の残るところだったので、
とうとう決心して、このメールを書くに至ったというわけです。

伊津野さんの言葉は、技法やそういった観点を超えて、
今、苦しんで生きている人に訴えかける力を持っていると思います。
少なくとも、その可能性を、私は感じています。
お見受けしたところ、怖いほど純粋な方だという印象を受けました。
そんな伊津野さんが活動していくにあたって、
理解者の方々の間で守られることが必要なのはよくわかります。
それでも、閉じられた空間に踏みとどまらないでほしい。
その声を、もっと多くの人々のもとへ届けてほしい。
私のように、「届いたよ」と呟きながら、
泣きながら生きている人間が、他にも必ず、いる筈だから。

これからもご活躍をお祈りしています。
くれぐれもお体を大切にお過ごしください。
凄い生き物がいる、という感じでした。

いつまでもきちんと感想を言語化できないでいるままに、
なぜか打ち上げの席に呼んでいただきました。(遅刻して。わああ。)

イベントの企画段階から、何人もの知人友人が関わっていて、
なんかとにかくすごいらしい、必ず観た方がいい、と言われていた
イベントです。皆様、ほんとうにおつかれさまでした。

短歌の祈り/詩の言葉

何かを感じたならば、なにはなくとも考えを言語化するべきだと思っています。
言語化した考えが正しいとすれば、こうなるのではないか?
と、言葉に置き換えて初めて仮説を築けるようになるから、
というのは青木淳の言葉ですが、私にも必要な作業です。

瞬時に理解できなくとも、とりあえず今は丸呑みして後で分解して再構築しようと思います。わからない、と、手放した時点で、なにも出来なくなるのはあまりにも惜しいし、はっきりと言えば愚かです。(経験で予測できるなら、選ばなくてもそれはそれでもちろんよろしい。えらそう。でも本当。)私はわりに鈍いので、わからない、ということがわからずに、気がつけば手を出していたり丸呑みしてみたりすることが多いです。怪我することも多いけれど、それはそれでよくも悪くも得るものがあります。経験を積んで予測できる危険は避けるけれど、それでも理屈でなく体で覚える衝撃というのは、どんなに大人になってもある経験です。
伊津野さんの朗読とは、そんな風に出会いました。

なにこれ?なんだこれ??おなじ生き物??このものすごい才能が、おなじ生き物????とても乱雑で簡単で申し訳ないのですが、「びっくり」しました。ぽかん、て、口が開いてたかもしれません。休憩時間になって、隣りの友達にはじめに話した言葉も「びっくりした」でした。おなじいきもの?ほんとに???

なんだかよくわからないけど、すごい。
と、思ったものに出会うと、頭の中に、まだ観たことが無くて作ったことのないお菓子の映像が浮かびます。こういう時に浮かぶのは、料理ではなく、お菓子。色も香りも舌触りも、まだ作ったことのない、私の知らないお菓子のイメージです。いくつもいくつも浮かび上がって、情報を処理するのが追いつかない。耳は朗読を聴きながら、目は伊津野さんを追いながら、ノートにいくつもイメージを描きとめました。白。クリーム。メレンゲ。ソーテルヌ。コニャック。アルマニャックかも。シナモン。ジャスミン。ミント。オレンジフラワー。バニラ。アニス、アニスとコケモモのスペインのお酒。クロッカン。透明。ジュレ。ゼラチン、じゃなくて、アガー。蜂蜜。カソナード。黒い黒い奄美の黒砂糖。まだなにかある、まだなにか私の知らない香りの素材が伊津野さんにあてはまる深い深い素材があるはず、あるはずだけど、わからない、けど、まだなにか、ある。わからないけど、あることだけはわかるから、それがもどかしく、もどかしいから今頭に浮かんだイメージだけは逃がさないように描き留める。映像で浮かぶ、ということは、言葉にできないからなんだろうと思う。言語を司る脳の部分は比較的新しい領域なので、追いつかない分、先に視聴覚で丸呑みしているんだろう。とか今なら思うけど、聴いてる最中はヒューズが飛んだように、目から耳から、そして内側からイメージの氾濫に呑まれっぱなしです。

伊津野さんの朗読は、短歌作品としての質の高さ、ソリッドさ以上に、目の前で彼女の声で歌われる言葉以上の何かが頭の中のどこかに、圧倒的な質量で浸透してくる衝撃でした。息をする間もなく、浸食されて触発される。声は、けして荒々しくはなく、柔らかくか細く優しい声と韻謡です。なにがどうして、こうも頭に響くのかはわかりません。才能、とひとことで言えば終わるけど、ただの才能ではないのだ、ということをどうにもうまく言語化できません。
一番近い比喩は「祈り」だと思います。

西行が「栂尾明恵上人伝」の中で、「歌の心は」と問われて、「和歌は如来の真の形態であり、歌を詠むことは仏像を造り、秘密の真言を唱えるにひとしい」と答える有名なくだりがあります。仏を造るように、祈るように、命を歌う。伊津野さんの歌は、弱い優しい心を持ったまま、峻険な道を一人で行くような、心に刺さる苦しく哀しいものが多く、その歌を生み出した凄まじい心の質量に圧倒されます。それでも、胸苦しいばかりでなく、哀しさに寄り添うように、最後に手のひらの中に灯すろうそくのような、優しい温かい柔らかさがほの見えるから、彼女の言葉に惹かれる人も多いのではないのか。

イベントが終わり、日が経ち、友達が何人も、
感想を言語化していくのを読みながら、

なにがなんだかわからなかった。けど、なにかものすごいものを観た。

という感想から、いまだに進んでいません。
進んでいないけれど、それでも自分の内側で動いたなにかを持っています。
さざ波のように広がって治まってまた泡立つような、なにか、です。
なにかがなんなのかはわからないので、まだ名前は付けずにいようと思う。

友達が感じたように、怖い、とは、思いませんでした。
それは私が鈍いから、だとも言えるし、こわい、以外の別な部分を
もっと触られたからかもしれません。

聴きながら、観ながら、描きながら、いくつもいくつもいろいろな自分の中にある未処理の、未処理、でないならば、とうに片付けた、と思っていたような感情や出来事や情報がいくつもいくつも浮き上がります。言葉にできないままでも、もしかしたらそれらは私が何かを作る力になるんだと思う。この感覚や感情に、馴れないうちに、なにかをつくろう。つかめなくてもどかしいと思ったイメージを何度もトレースして、レシピを描いて、試作して、形にしていこう。

人を、押す、動かす。
才能というのは、そう言うものなんだろう、と思う。
私が今でもくらくらしているのも、伊津野さんの才能にふれた「しるし」なのでしょう。


また、聴きたいし読みたいです。今度、また機会があるのなら、
あの人、あの人に、あの人にも、聴いてほしいな、と、思います。
聴けて、識ることができて、本当に良かったと思います。

渡辺さんについては、また今度~。

17日の福岡のイベントでご一緒させていただきました浦歌無子と申します。

先日は本当にありがとうございました。

渡辺玄英さんが「度肝を抜かれる」という言葉を使っておられましたが、

私にとっても心臓を鷲づかみにされる本当に貴重な体験をさせていただきました。

美しく力強く、ひりひりしてそれでいてやわらかく包みこまれるような伊津野さんの朗読…。

なんだか上手に伝えられなくてごめんなさい。

本当に素晴らしかったです。今思い出すだけでも鳥肌が立ってしまいます。。

観客としてあの場にいられたこと、また創り手として同じ舞台に立たせていただけたこと、

とても光栄に思っております。

またいつの日か「伊津野さん体験」をさせていただければ大変嬉しく思います。

そしてそして伊津野さんのお人柄にも惚れてしまいました。(ぽぉぉ)


これからのますますのご活躍をお祈りしております。
「短歌の祈り/詩の言葉」感想にかえて

自分の認識をはるかに超えたものに出くわした時、とりあえず浮かんくる感情は「怖い」ではなかろうか? N・シャマラン監督の「ヴィレッヂ」で冒頭からすぐ、思いっきり出し惜しみせず「森の赤い生き物」が表れたとき、私は相当に怖かった。作りは稚拙なのにとても怖いのだ。それがなんだかまったく分からないから。
(そりゃあプレデターだって怖かったけど、「ヴィレッヂ」の方が怖かった。プレデターだとエイリアンに近く、あのメタリックでセンサーなんか搭載している宇宙人とかいう設定が、私の中にインプンティングされていたからか?かたや「ヴィレッヂ」のそれって子供が竹箒で作ったお化けみたいで、ほんに稚拙なんだけど怖いのだ、私には)

恐怖の話から始めてしまった。
あの日、伊津野さんの瞬間にマックスとなる重低音を拾いきれず、マイクのアンプは情けない音を立て続けていた。私を客席から隔てる衝立が倒れそうでもあり(あくまでも心象イメージなのだが)、なにかそれは荒れ狂う吹雪の中、押しつぶされそうな山小屋で震えている錯覚に襲われた。怖かった。板東真砂子の小説にこのような場面はなかっただろうか。
そして、なんというか、たぶん巨神兵が暴れたらこんなのかもと、ぼんやり思った。
吼えているのは、あれは人間ではありません。あれは・・・・・・。


それでも徐々に巨神兵の咆吼に慣れて、彼女の放つ言葉が見えだすと、
またそこで私は新たな体験をすることとなる。
朗読のⅡ部は白秋や藤村など、近代詩歌の名作が読まれた。
なじみのある作品だから引き込まれやすかったのだろう。
朗読とは機械的に分かりやすく読めばよいというものではなく
発する人間の解釈を通して再現されるものである。
伊津野さんはよく「巫女的」と称されるだろうが、私はその言葉が
彼女の個性を軽んじているようで、実はあまり好きではない。
だが彼女が再生する言葉は繊細でありながらも、神の怒りとでもいえそうな
何か人智を超えた大きな力に満ちているので、これは到底個人の力ではなく
何か背後の大きなものを媒体となりおろしているのだ、と思えてしまう。
そう思ったが楽だからなのですが。


それは唐突に読まれた。
宮沢賢治の「永訣の朝」。
「じゅんさい」「アイスクリーム」というよく知った詩の中の言葉が飛んでくるが、
降ってきたそばから単語の意味は消えていく。
消えていくというのか、私が今まで知っていた意味なんか瞬時に消えてしまうような、
清新な重厚な意味が襲ってきたのだ。
言葉の飛び去った後に残ったのは、作品の愚直なまでのまっすぐさ、
あまりに無力すぎて強さにまで反転しそうな、愚直さのトレースである。いや、トレースですらなく、残骸だったかもしれない。
はたしてそれは賢治が書こうとしたものであろうか。伊津野さんが朗読をとおし、私たちに見せた光景かもしれないのだ。そんなことを思いつつも、私は「永訣の朝」に
(ああ、ほんたうにどこまでもでどこまでも僕といっしょに行くひとはないだろうか)と震え、
(あのさそりのやうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない)とつぶやくジョバンニの、いかにまっすぐで無防備であることかを思いだし、そこに重ねて見ていた。
繰り返すけど、それは賢治が作品に書こうと意図したものでないかもしれない。
伊津野さんの読みであり、読みでないかもしれない。
言葉そのものが持っていた世界がそこに抽出されて展開されたものかも、
あるいは私の頭のなかでだけ起こった化学反応かもしれない。
その複合物すべてが、彼女の朗読でまきおこされたものだった。



そして「れいこ」。
あの日はこの作品が伊津野さんの詩であるとは知りませんでした。
ここからは作者である伊津野さんに向かって感想のようなものを
書いてみます。





この世の最後の深呼吸が、どうか哀しいものではありませんように。というあの詩。
「永訣の朝」が感情の乱気流の中にいたのだとすると、
「れいこ」は仄白い、静かな湖の底にいるようでした。
静かで少し明るいそこにたどり着くまでに、あなたはどんな経験をしたのだろう。

痛みや哀しみ。苦しみ。
人間の暗部を書けば良い作品になるのかとは、単純に思いたくありません。
ただこんなにも悲しいものが、濾過され、
静かに優しくあたたかなものへ変化した様を私はあの日、目撃しました。
経験したことに対する自己憐憫なんか微塵もなかった。
自らを読みながら、あの「れいこ」は、ひたすらに人へ向けられた、
人を愛そうとした詩でありましたね。
世の中にはこんな思いがあるのだということを体験して
私は泣くことしかできませんでした。


あの体験を一言でいうならば、私には「脱皮」でした。
自分のペースで脱ぎかかっていたものを無理矢理剥がされたようでもあり
未だにひりひりと痛み、思い出しては涙が出そうになります。
しかしそれは素晴らしい体験でした。

今度お会いするときには、もう少し落ち着いて体感したいと思っています。
けれどまた木っ端微塵に吹っ飛ばされるのも快感かと、
性懲りもなく思えるくらいに快復しました。

寒くなります。お体ご自愛ください。
またお会いできる日を楽しみにしております。
文化のイベントラッシュをしめくくるこの2週間の間に

朗読を1つ
音楽会を2つ
旅行も2つ(いや、実家行きも含むけど)

経験してきました。
たくさんの初めての人と出会い、たくさん話したり、ご飯を食べてきました。
放出が続き、いささかへろへろです。
しかし、日記が書けなくなっていた理由は別にあったのでした。


この前テレビで「1年間におよそ何回泣いたか」というクイズがあっており、皆が30~40回と答えるなか、タモリが「1回」と答えていました。タモリ、本当にすごい。

「泣く」ということについて。
身体が受ける痛みや肉親友人の死という直接的な悲しみ以外の
映画や小説を読んで泣くという行為は、その媒体に対して自分が共感し同調してしまうからなのだろうと考えた。
母親が死ぬ話を読んで子どもが泣く、というのを例にとれば、あれは実生活とフィクションの境界が分からなくなり、自分の母親までが死んだように思えるからなのだと説明がつく。
その話はフィクションの世界のものだと、境界がはっきりすればこちらの彼岸から安心して冷静に物語世界を眺めることができるのだろう。死んだのは私の母親ではないのだと。
とすれば、涙もろい人とそうでない人の区別は、その境界線を計るセンサーの精度によるものなのだろうか。

むやみやたらとだらだら泣いていては生活もできない。信用もされないかも。
ラテンに属さぬこの日本では、他人のことで無責任に泣くことはあまり美徳とされなくて
かくして大人になるにつれ、自ずとセンサーの精度は上がっていくのかもしれません。



11月17日、福岡市文学館の伊津野重美さんの朗読会で
私はそのセンサー、いや、「たが」と呼んだがふさわしいだろうか。それが飛んでしまった。
朗読のⅠ部では怖くておろおろ泣き、Ⅱ部では骨まできりきりと絞り上げられるような痛い感情に泣いた。
私のセンサーには、対象に対して「哀しみ」とか「喜び」とか言葉を振り分けて着地させるような副機能も着いている。言語化することで着地させ、そこから理解してきたような気がする。
しかし伊津野さんの朗読は、私の拙いセンサーなんか軽く吹き飛ばしてしまった。
彼女の放つ言葉は私の既成概念を軽く吹き飛ばし、理解という名で言葉を捕獲しようとする行為すら愚かに思えた。
あの朗読に私はものの見事に木っ端みじんとなったのであり、今でも文学館2階の隅には
私を構成していた部品がいくつか落っこちているはずである。

外的世界のことを言語化して認識するということは、なんて安心できる行為だったんだろう。
その機能が一瞬にして吹き飛び、私は自分の存在に自信が持てなくなり
不安で寂しくておろおろ泣いた。
おろおろとは愚かのおろか?
センサーは壊れっぱなしだったので、この2週間はよく泣いた。
生まれ故郷の天草の海をみて涙ぐんだ。イルカウォッチングで船酔いし、しまりなく涙が出た。かつていろいろ言われたことや読んだ本を思い出し、とうとうと泣いた。好きな人のことを思いしくしくと泣いた。不安でたまらないので友人にたくさんメールし、暖かい返事にはらはらと泣いた。

先週の日曜、于波(ウハ)の弾くチェロを聞きに行った。

カザルスの「鳥の歌」、サン・サーンスの「白鳥」。ラテンの申し子のような彼の静謐な音楽。
「スペインの鳥はピース、ピースと鳴くのです」というあの有名なカザルスの話を知らなくったって、目の前に今聞こえる「鳥の歌」は、ただただ美しかった。
「美しい」とかいう言葉をあてはめたくもなくて
私は浮かんでくる言葉を無視しつづけた。
そんな私の葛藤なぞまったく関係なく「白鳥」は奏でられ、そこに現出し、私を震わせた。

そうして再び、私はのろのろとあの体験を言語化して日記に書こうとしています。
仕方ないのです。だって言語化とは私にとって考えるという行為と同義語で、
それはすなわち「生きる」と同じ意味なのだから。
バースデーケーキのホイップクリームに
触れた中指が渦を描く

 先日福岡市文学館の「短歌の祈り・詩の言葉」というイベントに参加した。神奈川県在住の歌人・伊津野重美(えみ)さんを招いての朗読会。
 伊津野さんはその小さな声と体で、詩を祈りまでに昇華することができる稀有な存在。

わたしにはなんにもなくてわたしにはこわいくらいになんにもなくて  伊津野重美

たった一人の母を許せずたった一人の母を憎めず堕ちてゆく 闇      同

 歌集『紙ピアノ』には危篤状態に陥ったほどの病気や家族から暴力を受けたことを詠んだ歌もある。しかし愚痴らしいものはない。ただ愛されたい、愛したいという強い願いを感じる。それらの歌を声に出して読んだとき、その場にいる人たちまで愛してしまうのが伊津野重美の表現だ。間近で聴いていた女性が数人泣きだしてしまった。

生きるのは苦しい。誰かに救われたい。でも救われたいのは私だけではない。みんな同じなんだ。伊津野さんから勇気をもらった。
まず身の回りの人から精一杯愛してみよう。単純な私は夫の誕生日にケーキを焼いた。「手作りケーキなんて初めてだよ!」と喜ぶ夫。よしよし、私もやればできるのだ。

しかし夜中、ごそごそと胃薬を探す夫を目撃。食べ過ぎて胃がもたれたそう。免疫のない夫には私の愛情が少し重すぎたようである。

         須藤歩実(未来短歌会)

    (「おくすり短歌」11月 毎日新聞 九州山口島根版)
プロフィール

いつのえみ

Author:いつのえみ
伊津野重美 

第一歌集『紙ピアノ』
1st Album『ひかりの素足』
詩誌『生命の回廊』発行・編集。

********************

フォルテピアニシモ vol.15
 
~ All can sing ~

http://paperpiano.la.coocan.jp/sing%20html.html

伊津野 重美 朗読

2017年11月3日(金・祝)
12:30 開場/13:00 開演

場所:STAR PINE'S CAFE

前売・予約¥2,500円+1drink
ペアチケット前売・予約のみ
     ¥4500+2drink
当日¥3,000円+1drink
チケット前売発売10月3日より
 前売は店頭販売かweb予約
予約アドレス
https://ssl.form-mailer.jp/fms/f7f014c8172636

STAR PINE'S CAFE
http://www.mandala.gr.jp/

**********************

伊津野重美 1st Album 

『ひかりの素足』
歌人伊津野重美による初の朗読アルバム。
ゲストにチェリスト森重靖宗を迎えて、
宮沢賢治の童話「ひかりの素足」と
日本近代詩の抒情世界を精緻に紡ぐ。

全9曲、48分。定価 2,500+税

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「生命の回廊 vol.3
『えーえんとくちから 
  笹井宏之作品集』特集号」

2011年11月刊行

井口和泉 浦歌無子 
岸田将幸 斉藤斎藤
斉藤倫 樋口由紀子
ひろたえみ 三角みづ紀
ヤリタミサコ 夕暮マリー
伊津野重美

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